四代目 市川左團次

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著作の紹介

『夢を見ない、悩まない』

『夢を見ない、悩まない』
市川左團次


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屋号 高島屋の歴史

 

高島屋家紋
「松川菱に鬼蔦」


初世代市川左團次(1842〜1904)

 初代は大阪の子供芝居出身。江戸へ出て河竹黙阿弥と出会い開花。明治座の座元兼座頭役者として君臨し、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎とともに、「團菊左」と並び称された。

 

二代目市川左團次(1880〜1940)

 明治13(1880)年10月、「團菊左」と称された初世代左團次の長男として築地に生まれる。同17年3月、新富座「助六」の金棒引で初舞台。同39(1906)年9月、明治座「慶安太平記」の丸橋忠弥ほかで、二代目左團次を襲名。
 同年12月には、松居松葉(後の松翁)の案内によりヨーロッパにて演劇視察を行い、ロンドンの俳優学校に学ぶ。帰国後の同42年(1909)年に小山内薫とともに自由劇場を創立し、9回もの公試演を持つ。「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」「どん底」「寂しき人々」などの翻訳劇の上演にも力を注ぎ、当時の青年層の熱烈な歓迎を受ける。これがわが国の新劇史の始まりとなる。
 その後、山崎紫紅、岡本綺堂の歌舞伎の新作脚本を演じ、さらに岡鬼太郎、永井荷風、池田大伍、木村綿花、小山内薫、真山青果らと結んで史劇を展開していった。
 昭和3(1928)年、わが国初めての歌舞伎海外公演であったソ連公演では、団長城戸四郎(後の松竹会長)の統率で、座頭をつとめる。演目は「忠臣蔵」「番町皿屋敷」「鳴神」「修善寺物語」など。若き日の映画の巨匠エイゼンシュタインからも高い評価を受け、以後彼の映像作品の中にも、歌舞伎の”見得”の演出技法の影響が見られるようになったというエピソードもある。
 歌舞伎十八番の復活、研究にも熱心で、歿後の舞台にも大きな影響を与えた。誤魔化しの出来ない人柄であり、途中で台詞を間違えると元に戻って言い直した。それでも観客の失笑をかわない風格の俳優であった。昭和15(1940)年2月に60歳でこの世を去る。

 

三代目市川左團次(1898〜1969)

 明治31(1898)年、日本橋に生まれ、間もなく市川女寅(後の六代目市川門之助)の養子となる。同35(1902)年、歌舞伎座「ひらかな盛衰記」の駒若丸で初舞台を踏む。大正6(1917)年、市村座「御摂接若楓」で三代目市川男女蔵を襲名。九代目市川團十郎、六代目尾上菊五郎に師事。市村座時代は、三代目時蔵に二枚目、若女形にと、美しさを競った。昭和24(1949)年、尾上菊五郎劇団結成と同時に理事に就任し、劇団が伸長する上で大きな役割を果たした。同27(1952)年、歌舞伎座「女鳴神」の鳴神尼で三代目左團次を襲名。同37(1962)年、日本芸術院会員。同39(1964)年には無形文化財に指定される。長い雌伏期間とみられる時期があったが、戦後は老若自在の舞台で大いに活躍した。
 當り芸は「梅雨小袖昔八丈(髪結新三)」の手代忠七、「義経千本桜」の平維盛、「本朝廿四孝」の武田勝頼、「祇園祭礼信仰記(金閣寺)」の狩野之助直信、「新版歌祭文(野崎村)」の久作、「菅原伝授手習鑑(寺小屋)」の源蔵・戸浪、「義経腰越状(五斗三番)」の関女など多数。
 温厚な人柄、一流の品格の持ち主で、芸にも江戸役者の風格があふれていた。昭和44(1969)年、72歳でこの世を去る。最後の舞台は、国立劇場の「妹背山婦女庭訓」の烏帽子折求女であった。